2009年5月7~8日 仙台旅行~新幹線総合車両センターを訪れる(その2)
引き続き5月7日~8日に書けての仙台旅行日記です。
余談ですが、前回の日記でGWの続きと申し上げましたが、よく考えると、すでにこの日は平日ですね・・・。
今回は新幹線総合車両センターに展示されている電気機関車と蒸気機関車についてご紹介します。
自分の勉強も兼ねて、ご紹介説明文つきでいきます。
EF71-1
奥羽本線板谷峠は平均勾配が約33‰あり、信越本線碓氷峠や山陽本線瀬野-八本松(瀬野八越え)と並ぶ、国鉄主要幹線きっての難所であった。
同区間は太平洋戦争後早期の1949年に直流電化され、勾配線対応のEF16形やEF64形を使用してきた。1959年に東北本線黒磯駅以北が交流電化され、福島駅で分岐する奥羽本線も交流電化し、板谷峠の電化区間も交流方式に転換する方針が決定したことから、板谷峠対応型の勾配区間用交流電気機関車が計画され、サイリスタ位相制御・交流回生ブレーキを搭載した試作機 ED94形(後のED78形)が試験に供された。
同区間は貨物列車も多数往来しており、牽引定数を極力確保する必要があった。連結器の強度と勾配条件から列車重量は最大 650t を想定したが、この条件下ではED78形のみの重連運転では出力の不足が懸念された。出力確保のため、EF70形に続く動軸6軸の「F形」として開発された形式がEF71形である。
いわゆる「ヨンサントオ」ダイヤ改正(1968年10月1日)の板谷峠交流電化開業から使用を開始した。全車を福島機関区に配置し、普通列車・貨物列車・寝台特急「あけぼの」の牽引など広汎に使用された。専らED78形牽引列車の補助機関車としての運用を想定されてはいたが、現実の運用では本機での単機牽引も行われ、厳密な区別はされていない。
純粋な補助機関車での運用として、キハ80系気動車を使用していた特急「つばさ」に使用した時期がある。同列車での補機運用は1970年に大出力機関搭載のキハ181系気動車を使用開始したことで一度解消されたが、連続勾配下での過負荷運用による機関過熱などが多発したため、負荷軽減のため再度本形式を補機として使用することとなった。1975年11月に奥羽本線の全線電化が完成し、「つばさ」が485系電車での運用を開始したことで当該運用は解消している。
JR移行ではJR東日本に承継され、引き続きED78形とともに使用されたが、客車夜行列車の廃止や貨物列車削減などで運用は狭まっており、その末期まで残った板谷峠越えの普通列車運用では、わずか2、3両ほどの短編成の客車列車を大出力の本形式が牽引するという不経済な事態も見られた。
1992年に山形新幹線開業のため福島 - 山形間が標準軌化されたことで同区間での用途を喪失した。一部は東北本線で臨時の運用に使用されたこともあったが、一般の勾配では過大とも言える大出力で、特殊設計であるがゆえに他線区への転用・活用が難しく、1993年までに全車が除籍され形式消滅した。
(ウィキペディアより抜粋)
寝台特急あけぼのも牽引したことのある電気機関車ですね。交流専用電気機関車でF型電機は初めて見ました。
ED77-1
交流電気機関車の速度制御は変圧器をタップ制御し、モーターの回転数を調整することで行われるため、抵抗器を用いる直流電気機関車と異なり連続的な制御を行う分、加速性能や粘着特性など優位に立つ。
ED75形では主磁気増幅器と低圧タップ切換器の組み合わせが採用されたが、大電力制御用シリコン整流器(サイリスタ)を用いた場合、磁気増幅器とタップ切換器がシリコン整流器に内包されるため、機器減少による軽量化と完全無接点無電弧化が期待できる。ただ、当時の交流電気機関車の電気制御方式は日進月歩で、まだこの制御方式が未完成であった。
サイリスタ制御の利点としては、機器の小型化による機関車重量の軽減や、無接点化による故障防止などが挙げられ、次世代型の制御方式として国鉄を中心に研究が進められていた。特に支線区用や酷寒地用車両にはこれらのメリットがより生かせるため、1965年に試作機がED93形として登場、北海道用に特に全サイリスタ制御で製造されたED75形500番台の運用試験結果を踏まえ、誘導障害対策を施した量産機が1967年に登場する。
本形式はED75形の許容軸重を下回る東北地方の縦断線での使用が計画され、磐越西線南部区間電化時に投入された。全車とも福島機関区に配置され、会津若松運輸区に常駐して使用された。
他にも仙山線や田沢湖線での投入が当初検討されていたが、前者は勾配対応装備を施したED78形が投入され、後者は実際に電化されたのが貨物列車の全廃後のため専属機を配備するメリットがなく、臨時列車は当初DE10形、軌道強化後はED75形が牽引した。
1987年のJR移行では量産車の7両がJR東日本に承継された。同線の軌道強化によってED75形が走行可能となったことで1993年までに運用を終了した。
(ウィキペディアより抜粋)
磐越西線で走っていた電気機関車なのですね。うーん、走行シーンを見てみたかったです。
ED91-21
1953年、全国の幹線の電化を進めるにあたって、変電所が少なくでき建設費を抑えられる商用周波数による交流電化方式が着目された。国内での研究のほか、単相交流では世界初の交流電化実用に成功したフランスから機関車を輸入するため折衝にあたったが、国鉄が試験用としての最小両数の輸入とする方針だったのに対し、フランス側は継続的な輸入を要求したことから交渉は決裂した。このため自力で交流電気機関車を開発することになり、まず1955年、直接式(交流電流により整流子式の交流モータを駆動する方式)のED44形と、整流器式(交流電流を整流器によって直流に整流し、直流モータを駆動する方式)のED45形が1両ずつ試作された。
4両とも作並機関区に配属され、仙山線での試験終了後、1957年9月から同線で営業列車の牽引を始めた。1961年、形式称号改正に伴い、ED44形→ED90形、ED45形→ED91形に改められた(製造番号はそのまま)。
その後、仙山線全線が交流電化に切り替えられた際、新形式のED78形に置き換えられ、1970年までにすべて廃車された。
(ウィキペディアより抜粋)
仙山線で走っていた電気機関車です。
ED75-1
1963年に常磐線が平駅(現・いわき駅)まで電化開業するのに伴い、広汎な運用に供するため汎用性を重視して設計された機関車である。
投入開始以来、当初構想の東北・常磐地区のほか、北海道や九州にも投入され、事実上の標準型として1976年までに総数302両が製造された。特急列車から一般貨物列車まで幅広く運用されたが、1980年代以降はEF81形の運用拡大、夜行客車列車や貨物列車の削減、普通客車列車の電車化・気動車化などによって運用が減少し、JR移行時には初期車を中心に大量の廃車が発生した。その直後、廃車となった一部の車両が日本貨物鉄道(JR貨物)の輸送量増大に対応するため車籍を復活して運用に就いたが、現在ではEH500形の増備によって淘汰が進んでいる。
JR東日本
JR移行で基本番台の後期製造機・700番台・1000番台の一部を承継し、「ゆうづる」などの寝台特急を含む東北地区各線区の客車列車牽引に使用した。1993年以降、優等列車の廃止や701系電車の投入で運用が減少し、基本番台や1000番台の一部はJR貨物に移籍された。700番台は当初投入線区の関係[5]から貨物運用への転用は困難で、経年が新しいにもかかわらず基本番台より先に淘汰が進んだ。
同社で稼動中の車両は秋田車両センターに3両、仙台車両センターに3両があり、すべて700番台である。
秋田所属の車両はJR貨物から運用委託された土崎駅 - 酒田駅間の不定期貨物列車牽引に使用されたが、2007年3月に列車が廃止され定期運用がなくなった。仙台所属車は仙台周辺の工事列車を主に使用するほか、EF81形の故障時に、寝台特急「カシオペア」・「北斗星」の代替牽引に使われたこともある。
運用範囲は東北本線(黒磯駅 - 青森駅)常磐線(水戸以北)を主とするが、臨時列車の運用で常磐線の神立駅や水戸線の川島駅まで運転される事例もある。
JR貨物
基本番台・1000番台を承継したほか、輸送量の増大に対応するため国鉄清算事業団から購入し車籍復活した車両も存在した。
稼働中の基本番台・1000番台の全車を仙台総合鉄道部に配置し、以下の区間で使用する。
東北本線(郡山駅 - 青森信号場)
常磐線(水戸以北)
奥羽本線(青森信号場駅 - 弘前駅)
東北本線では本形式の運用開始以来、長く黒磯以北の交流電化区間で使用されてきたが、2009年3月のダイヤ改正で郡山 - 黒磯間の運用が消滅した。
奥羽本線では秋田貨物駅までの運用が存在したが、、2008年3月のダイヤ改正で同区間の運用をEF510形に置き換え、一旦本形式での運用がなくなった。2009年3月のダイヤ改正で再度、弘前までの運用が復活している。
1993年から機器取替などの更新工事が開始され、施工機は外部塗色が変更されている。当初の施工機は外板下半分が白く「白更新」と通称される(2009年4月時点で稼働車無し)が、2003年7月に出場した1028号機から車体裾のみ白くした「新更新色」となっている。この1028号機は仙台総合鉄道部で車体に『ED75』と巨大なレタリングが入れられ、EF81 95などの「スーパーエクスプレスレインボー」専用色に類似した外観であったが、2009年3月に運用を離脱している。
一時期はEH500形の故障続出によって稼動機の必要数が不足し、いったん運用を外れた本形式が再度整備されて復帰する事態も発生していた。
EH500形の稼動状況が安定し、増備がさらに進行している現在では、M形を中心に更新工事の有無を問わず検査期限が切迫した車両から順次運用を外れ、廃車・解体の処分が進行している。
(ウィキペディアより抜粋)
現存するED75のトップナンバーがここにありました。EH500がだいぶ幅を利かせており、黒磯の定期の貨物運用でED75が入線することがなくなってしまっているようです。そのうち、一度走行写真を撮りに行かなければなりませんね。
ED78-1
奥羽本線の交流電化に伴い、急勾配を有する板谷峠(福島 - 米沢間)の通過対策を主として開発された交流電気機関車である。
板谷峠は約33‰の平均勾配を有し、碓氷峠・瀬野八と並ぶ急勾配区間である。同区間は1949年より直流電化されていたが、1968年10月1日のダイヤ改正で奥羽本線の米沢 - 山形間が交流電化されるのにあわせ、交流電化への切替が決定した。同改正では一部に直流電化区間を有した仙山線も全区間の交流電化切替が決定し、両区間で使用する機関車の開発要件として、特別な運転技量を要する連続した勾配区間で使用可能なこと、軌道の弱い仙山線でも使用するため車両の軸重を軽くすることが求められた。
板谷峠では1963年以降、勾配用として抑速発電ブレーキを装備したEF64形電気機関車を使用してきた。電化方式の変更にあっては、主回路に抵抗器をもたない交流電気機関車は発電ブレーキによる抑速運転ができないことから、抑速機構として交流回生ブレーキ方式の採用が検討された。
交流回生ブレーキを搭載し、軸重可変機能付の中間台車をもつ試作機関車ED94形による各種試験の後、量産仕様としてEF71形電気機関車とともに設計されたのが本形式である。
福島機関区に配置され、奥羽本線や仙山線で使用した。寝台特急「あけぼの」急行「津軽」などの優等列車から貨物列車まで運用範囲は広汎にわたる。単機で列車牽引に使用するほか、板谷峠区間では本形式どうし、または EF71形との重連で使用した。名目上はEF71形を板谷峠区間の補機として用い、本形式は前後区間を含め列車の牽引にあたる本務機としての運用方が見込まれたが、実際の運用上の区分は明確なものではなかった。
1992年に山形新幹線が開業し、福島 - 山形間は標準軌に改軌された。EF71形は適当な転用先がなくそのまま運用を終了したが、本形式は引き続き仙山線で貨物列車・臨時旅客列車などに使用された。
1993年に福島運転区(1988年に福島機関区から改称)が閉鎖され、本形式は仙台電車区(現・仙台車両センター)に移動し、引き続き仙山線で使われた。同線は1990年に軌道強化されED75形の入線が可能であったが、勾配区間が存在する同線で貨物列車を牽引するため回生ブレーキをもつ本形式が継続使用されていた。同線の貨物列車が1998年までに運転終了した後は「落ち葉清掃」の運用に使用されたが、2000年に残存の2両 (12・13) が除籍され形式消滅した。
(ウィキペディアより抜粋)
仙山線の貨物運用がなくなったこと、奥羽本線の新幹線開業が同形式多大な影響を与えていますね。新幹線の開業は確かに便利になりましたが、こういった電気機関車がなくなってしまうのは寂しいですね。碓氷峠のEF63と同じ感じがします。晩年の「落ち葉掃除」の運用、本当に悲しい感じですね。2000年まで走行していたとは。
ED71-1
東北本線の電化にあたり、北陸本線での実績を踏まえ、黒磯以遠の東北地方全域を周波数50Hzの交流電化が採用されることになった。東北本線の輸送単位を勘案すると、単機で1000t、重連で25‰勾配区間において1200tの貨物列車を牽引可能な性能が求められたが、出力1500kW級のED70形では不十分で、出力2000kW級の大出力交流電気機関車を新たに開発される必要があった。ただ、技術的検証を要する面があり、まず1959年に試作機を製造、この結果を踏まえて1963年まで量産機が製造されている。
東北本線の主力機関車として使われたが、1965年に盛岡まで電化が伸びた際も、冬季のエキサイトロン凍結を恐れ運用区間は小牛田まで延びただけに終わり、その後は使用区間に変化のないままED75形の大量投入の前に次第に二線級となる。エキサイトロンは比較的故障が少なかったが、水銀整流器ゆえの取扱い効率の悪さから1970年以降、シリコン整流器に交換されたことで位相制御を失い、同時に一次形は不評のクイル式駆動装置がリンク式に改造された。晩年はD形交流機としては最大の出力を生かし補機仕業を中心に運用されていたが、ED75形700番台の福島機関区転属が引き金となり1984年までに全廃となった。
ED75形以前の黎明期の交流機関車としては長く使われたほうといえる。
(ウィキペディアより抜粋)
東北本線用とのことです。ED75が量産されるまでは主力だったとのことですが、ライトが一つというのが印象的ですね。
さて、次からは蒸気機関車のご紹介です。
D51-1108
全国の幹線・亜幹線に普及し、至る所でその姿は見られた[24]。貨物用のため地味な存在だったが、中央本線(中央東線・中央西線とも)や函館本線の”山線”区間(長万部 - 小樽間)などのように急勾配区間の多い路線では、急行をはじめとする優等列車を含む客車列車の牽引に使われた車両も多く、羽越本線などのような平坦路線でも客車列車牽引に使われた例があった。D51形は軸重が重いため、多くは本線の客車を牽引した。中にはお召し列車を牽引した車両もある。 運転・保守両面で概ね好評を博し、全ての車両の保守状態が最悪であった太平洋戦争終結直後でも、D51形は9割を超える車両が稼働状態にあったといわれる。
貨物列車の牽引では、夕張線(現・石勝線)・室蘭本線では、夕張方面の炭鉱から室蘭港へ向かう2,400tの運炭列車をD50形とともに単機で牽引する運用をしていたこともあった。昭和33年時点では本形式で函館本線小樽築港 - 滝川間と室蘭本線岩見沢 - 追分間で牽引定数が換算185両(=1,850t)、追分 - 室蘭間で換算260両(=2,600t)を設定。昭和27年2月に追分 - 室蘭間で3,000tの試験をしたところ成績は良好だったものの単線区間の線路有効長の関係で実施に至らなかった。9600形でも2,000t牽引を行った区間であり、夕張方面の炭坑から追分駅を経て苫小牧駅付近までの片勾配のゆるい下り坂区間においては、いかに長大とはいえセキの積車状態の編成であれば走行抵抗が小さく、引き出しさえすれば[25]、後は室蘭港まで引っ張っていけたからである。空車のときにはゆるい上り勾配であることとあわせ、空気を巻き込んでしまうため速度があがらなかったほどである。無段階制御のおかげで圧縮牽き出しなどの技能を駆使できる蒸気機関車ならではの運用である。 大戦中は10‰勾配区間でD51形に8620形を補機としてつけることとして1,200t列車の計画が立てられたが、機関車の所用数の増加を招くことから中止となった。
本来D51形を置き換えるために開発されたはずのDD51形ディーゼル機関車がD51形が単機でまかなえていた貨物列車を置き換える際に重連での牽引を要するという例が、無煙化後、全国で多く見られた。これは、ノッチ刻みの制御では重量級列車の牽き出しで多用されていた圧縮牽き出しの実施が困難であり、貨車の軸受が平軸受で牽き出し抵抗の大きかった時代には、たとえ動輪周牽引力が同等でもDD51のほうが牽き出しに限れば不利であったためである。
旅客列車の牽引では、函館本線の急行の牽引が特筆されるが、これは長万部 - 小樽は重連で、函館-長万部は単機で牽引するも高速運転で各部の磨耗による検修の負担と、振動の激しさと連続力行で助士二人乗務で投炭することによる乗務員の負担過大からC62形への転換が行われ、1971年にはDD51形ディーゼル機関車に置き換えられた。
(ウィキペディアより抜粋)
しかし、製造された車両数はかなり多いですね。よって、現在も静態保存されているものもかなり多いです。そのなかでも動態保存されている D51-498(現在故障中)、D51-200についてはいつまでも頑張って欲しいですね。
C11 351
最初は主に西日本の都市近郊や主要支線で使用された。近畿地方の快速列車を牽引した際には特急と張り合う俊足ぶりを発揮した。やがて活躍の場を広げてほぼ全国各地に配属され、主にローカル線の列車牽引に使用された。気動車が普及するにつれて余剰となり始め、1960年頃から少しずつ廃車が出たが、使いやすさには定評があり、貨物列車用や入換用として蒸気機関車の末期まで数多く残った。 また、優等列車の牽引としてはさくらの佐世保編成のうち、早岐駅 - 佐世保駅間牽引に、早岐機関区の本形式が、1965年10月から1968年の9月まで使用された。これは、早岐駅でスイッチバックする必要があったためである。
(ウィキペディアより抜粋)
こう見ると、どちらかというと西日本での運用が多かったのでしょうか。また、静態保存されているものでは、
◎C11 1 - 東京都青梅市「青梅鉄道公園」
◎C11 292 - 東京都港区・東日本旅客鉄道新橋駅日比谷口SL広場
そして、動態保存されているものも、何機かありますが、その中でも真岡鉄道の C11 325はつい最近見て、撮影もしてきました。その様子はまた後日ご紹介します。
C58 365
戦前から各地のローカル線で活躍しており、都市部の入換用機としても活躍した。特に千葉、四国全域はC58形の天下であった。
太平洋戦争中の1944年には、50両(C58 37 - 46, 49 - 58, 64 - 73, 89 - 96, 130 - 141)が軍に供出されることになり、6月から11月にかけて省の工場で1m軌間に改軌され、実際に25両(C58 37, 38, 40, 42 - 45, 53 - 55, 67, 68, 73, 91, 93 - 96, 130, 131, 133, 134, 136, 138)が南方に送られた。使用地はマライといわれるが、定かではない。この時期には、日本軍は既に制海権を失っており、そのほとんどが輸送中に海の藻屑となったようである。戦後、タイ国鉄において、4両(C58 52, 54, 130, 136)が761 - 764として使用されているのが確認されている。当地では、軸重が大きすぎ、構内入換用以外の使い道がなかったようである。未発送となった25両は復元され国鉄に復帰した。
戦後の新造が落ち着いた1948年7月1日現在、本形式は388両が在籍した。鉄道局別の配置は、札幌36両、仙台75両、東京60両、名古屋43両、大阪72両、広島51両、四国32両、門司19両であった。主な使用線区は、札幌局管内では石北線、釧網本線、根室本線と札幌近郊の函館本線、仙台局管内では大船渡線、山田線、釜石線、横黒線、陸羽東線、陸羽西線、仙山線、磐越東線、磐越西線、東京局管内では水戸線、総武本線、山手線、横浜線、名古屋局管内では七尾線、小浜線、高山本線、大阪局管内では関西本線(奈良駅 - 湊町駅間)、紀勢西線、城東貨物線、伯備線、広島局管内では、芸備線、宇品線、山口線、美祢線、山陰本線西部、四国局管内では予讃本線、土讃本線、門司局管内では久大本線、豊肥本線である。このうち比較的輸送量の多い釜石線、横黒線、磐越西線では比較的早くにD50形やD60形により置き換えられた。
(ウィキペディアより抜粋)
身近なところでは、秩父鉄道の「パレオエクスプレス」で活躍しているC58 363などがありますね。元気に走っている姿をぜひ写真に収めたいです。
以上で、新幹線総合車両センターに保存されている電気機関車、蒸気機関車のご紹介を終わります。
殆どが、ウィキペディアからの抜粋で手抜きっぽくなってしまい申し訳ありません。でも、いろいろ勉強になりました。突然、思いつきで訪れた新幹線車両センターですが、無料でいろいろ勉強になります。仙台を旅行された際にはぜひ、足を運んでみてください。
最後に、おまけの一枚。
新幹線総合車両センターにあった車です。E4系ですね(笑)構内案内専用車両のようです。
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